日々は祈ることばかりだ。
相変わらずVRChatをプレイしている。今週はバーチャル朗読会に行った。
【第20回 #マノンの朗読会 開催のお知らせ】
— 海崎マノン📖9/13・14バーチャル朗読会 (@okina_manon) 2020年9月5日
9月13・14日(日・月) 22時から開始
バーチャル朗読家、海崎マノンです。
今月の朗読会開催をもって、ちょうど2周年の20回目となります。今回も2日間の開催を行い、14日にはYoutubeでのライブ配信も行います。どうか是非ともご参加くださいませ!✨ pic.twitter.com/VXraVBzbx7
2周年で20回とのことだが、自分が初めて参加したのは19回目から、つまり今回が2回目の参加となる。
初めて参加した時は、「コミュニケーションが苦手な自分でも朗読を聞くだけならコミットできる……!」という後ろ向きな気持ちでの参加(しかもVRCで初めて参加したイベント)だったが、想像以上にその体験が良かったので今回も参加しようと決意した。
ワールドは今回より自作のものを使っているらしく、観劇時特有の静寂の中の妙な高揚感を感じることが出来る仕上がりとなっていた。
そして肝心の朗読は、読み手である海崎マノン氏の演技力(ボイチェン使ってる?ってくらい演技の幅が広くて驚く)だけでなく、話のチョイスがとても良い。
前回は菊池寛の「三人兄弟」であり、そして今回はアンデルセンの「年とったカシワの木のさいごの夢」であった。
※三人兄弟は小さな選択が予想も付かない運命へと転がっていく話であり、さいごの夢は短命の者(カゲロウ)と長命の者(カシワの木)それぞれの夢の話である。どちらも青空文庫で読める。
重要なのはこの物語を仮想世界で仮想の住人として、仮想の語り部の声を、仮想の観客たちと共に聞いたということで、単にこれらの朗読をVtuberから聞いたのならば、「朗読が上手だね〜」以上の感動を得ることはなかっただろう。
物語とは信仰するものであり、その信仰は自らの存在を規定する。その逆も然りで、祈りは物語を形作る。
つまり仮想世界で語られる物語とは、仮想へ捧げられた祈りであり、その祈りは仮想存在へ、物語へと相互に影響を与えるのだ。
何が言いたいかというと、これらふたつの物語は、どちらも仮想世界で語られるのに相応しいものだったということだ。
ということを前提に話を個々の物語に戻そう。
三人兄弟は三叉路の行く先を違えた結果、役人/盗賊/領主とその後の運命は大きく分かれた。
そして仮想世界行きという道を選んだ我々はどうだろうか? 現実で諦めたはずの道の続きや、得られなかった青春を取り戻すなど、予想もつかない運命の中を進むことになっている。
自分がVRChatを始めたのは、性的な目的という割と最悪なアレだが(JHPに通ってました✌)、今思い返せば中学生の頃にらき☆すたハルヒを見て覚えた「二次元世界に行きたい!暮らしたい!」という欲望の続きをしているのかもしれない。
実はその流れで、「脳内の電子を制御して二次元世界の完全な幻覚を見たい!」というふざけた夢を抱き電気電子工学科を志望していたこともある。
結果的には情報工学科に行き、オタク技術を学び、何やかんやあり、オタク技術で光る謎の眼鏡(valve indexのことです)を装着し、二次元に辿り着いたわけで、本当に運命とは予測不能である。
@子供の頃の自分へ 64ってすげーよな、3Dでマリオが動くもんな。大人になる頃にはゲームってどうなるんだろ?もしかしたら自分がマリオになれるのかな?なんてドキドキワクワクでいっぱいだったよな。
— 死蝶の葬列 (@fotdb) 2020年9月10日
すぐにその未来はやってくるから安心しろ、ただしマリオじゃなく酒飲みの美少女になるんだが…… pic.twitter.com/kLxCNJt7KN
そしてさいごの夢だが、自分は世界(≒VRChat)の愛し方に関する話であると捉えた。
カゲロウはたった1日限りの世界を「なにもかもが、こんなに、たとえようもないほど明るくて、暖かくて、美しいじゃありませんか。あたしは、とってもしあわせなのよ!」と肯定した。
カシワの木は「わしは、なにもかも、持っているのだ。小さいものも、大きいものも。忘れたものは、一つもない。世の中に、これほどの幸福が、あるだろうか、考えられるだろうか」と世界の営み全てを肯定した。
そして我々の多くは、目の前にいるCUTEなアバターたちを、美しいワールドの数々を、そしてこの場所にいる瞬間を愛して今日もVRChatにログインするのだろう。それは現実では得られないとても尊い行為だ。
しかしそれはカゲロウの世界のように刹那的なもので、HMDを外せばそれらの美しいものは全て失われてしまう。
だからこそカシワの木は満足できなかったのだ。世界の美しさを全て記録し、「小さなものも、大きなものも、みんな、自分と一緒に、よろこびを感じないうちは、満足できなかった」のだ。
マノン氏は朗読後に「カシワのように皆で一緒に大きくなり高みを目指したい」(※聞き間違えてたらごめんなさい)と宣言していたが、実際に朗読会はVRC内に点在する世界を繋げ、物語を分かち合える場所になっていたと思う。
もちろん、この朗読会だけでなくカフェやらバーやら勉強会やらクラブやらゲームやらの仮想世界で毎日行われる様々なイベントも同じように小さな物語を繋げ、世界を形作ることに貢献しているのだろう。
だが、カシワの木は冬の嵐の夜に倒れ、物語は終わる。
永遠に思えるような仮想世界の日々も例外でなく、いずれ終わるのだろう。
それはユーザ減少や運営の倒産というストレートな衰退かもしれないし、Twitterのように沢山の欲望が流入し、ゲームの目的が書き換えられてしまう事による概念的な終わりかもしれない。
だが、後者はないと信じてる。いや、信じたい。
話は逸れるが、最近のコンテンツは裏まで読まなければ消費できないようになってしまったと感じるし、消費をするだけで本当に疲れてしまう。
最近のわかりやすいところで言えば100ワニが該当するだろうか、100ワニの表だけを読みコンテンツに感動した人間は、最終的に何も悪いことをしていないのに馬鹿にされる立場となってしまった。
インターネットは常に”深い”ことを言い続けなければ誰かのマウント欲に攻撃される場所になってしまった。
ソシャゲのガチャだって金さえ出せば単発だの天井だのの"語り"ができる装置として機能してるし、いわゆる関係性コンテンツも、一時期はやった日常系に"深さ"を語らせるための装置として流行っているのだろう(流石にこれは言いすぎか)
だが、VRChatは以下のツイートが示すように純粋な願いと欲望によって駆動する世界だ。
だから、安心してコンテンツを享受することができる。
VRCの催しはほぼほぼ有志で成り立ってる、言い換えれば友達を作って欲しいから交流の場を用意する人がいる、技術を教えたいから講習会を開く人がいる、授乳を通して甘やかしたいから授乳カフェを開く人がいる。そこにそれ以外の思惑は基本無い
— マテラッツィ (@amato_0777) 2020年8月31日
また欲望とは欠乏から生まれるものであり、欠乏とは絶対的なものでなく相対的に感じるものだ。(※三大欲求は除く)
資本主義は金銭で、SNSはいいね!という数字で欠乏を可視化してしまったことが全ての不幸の始まりだったと思う。
VRCが何らかの数字でユーザを評価するゲームでない以上、きっと純粋な欲望は純粋なまま駆動し続けるだろう。だからしばらくは安心だ。
話を本線に戻そう。
世界はいつか終わるし、永遠はどこにも存在しない。
だが、それは完全な絶望ではない。
この世界で賛美歌を歌い続けるものがいる限り、誰かに物語が記憶される限り、世界が愛され続ける限り、世界が祈りで満たされ続ける限り、今日という日が救われ続けるのだ。
だからどうか、この儚い幻想世界が物語として続いていくように。
俺は祈り、ここに記録する。
P.S.
カシワの花言葉は「愛よ永遠に」らしい、ちょっと鳥肌が立った。