変わらないでと願うことは呪いだろうか
Twitterでもブログでも散々「狂気」という単語を使ってきたが「理性で支配できない非合理的な精神状態」くらいのニュアンスで使っている。
だが最近は"狂"の主体が自己の外側にあるか内部にあるかの2種類で、分けるべきなのではと思っている。
例として、狂いの主体が外部にあるとはコンテンツを消費して狂うような麻薬的な狂気を指し、内部にあるとは仏像彫刻のような瞑想的な狂気を指す。
人類は自分のことを何らかの"異常"だと思ってるフシがあるが、自分がどちらの狂気に支配されているのかは意識したい。
どちらに該当するにせよ異常なうちは異常でいられるが、狂気から醒めた後の救われなさが異なるからだ。
前者は対象にしがみつくことでしか自己を保てないため目覚めるときは自己を喪失するのと等しい。
後者は対象を自己として取り込もうとするものであるため、狂気から醒めるというのは(良い悪いは別として)自己が変質し、対象が不要になったときであるからだ。
自分は前者の"弱い"狂い方しか出来なかった。
振り落とされないように狂い続けられるほど異常じゃなかったし、狂気から何かを生み出せるほど器用ではなかった。
そして自意識と向き合わず、狂えるもの全てに縋り続け、狂気から醒めた頃には全てを失っていた。
また、これは個人的な反省であり以前から言ってることだが、非実在対象に向けるオタク的な"愛"とは対象が非実在であるが故に一方向的であるし、その報われない愛を大きく(キモく)することで救われようとしがちだ。
しかし、実在対象への愛は相互で確認し合うことが重要であって、愛を一方的にデカくするだけでは救われないのだ。
なんでこんなことを言い始めたかと言えば、やはり仮想世界が原因で、あの世界には愛する対象も自分自身も間違いなく"存在"しており、観葉植物や壁や床や天井などの観測するだけの概念となって一方的に愛を注ぐという狂気に浸り続けるのは難しい。
故に愛が報われたいのであれば、愛する対象から愛される自分自身(見た目や言動)というものを表現し、承認を得たいという欲望には蓋をする必要がある。
以前、創作パラノイア(表現しなきゃ死んでるのと同じ的なアレ)から抜け出す方法として「表現は手段でしかない、ただ願い祈れ」と結論付けたが、それは対象が非実在で承認を諦めるしかない場合、もしくは内向きの強い狂気の中に住める人にのみ有効な手立てであった。
でも結局自分は、技術さえあればできるような模倣(トレス)的な方法ですら愛を表現できなかった、自分勝手に狂うのみで変わることも変えることもできなかった。
対象に願うのならば、同じ大きさの呪いを受け入れなければならないということも知らなかった。
誰もが同じように欲望と表現の断絶に苦しんでると思うし、技術抜きで断絶を架け渡せる共感覚が人類に備わっていればよかったのにね……と思います。
ぐだぐだいろいろ書いてみたけどこれただの「コミュニケーションつらい〜」って話ですね、27年間コミュニケーションを避けてきたド陰キャの俺が全部悪いです。
こんな遠回りに書かなくてもこの前の"アレ"が全てですね。半分くらい嘘だけど半分は本当なので。くるしいね。
こんな異常独身男性仕草から抜け出せずにいると「オタクに飽きたから現実に戻るわw」ってときにクソデカ障壁になるので、皆さんは同じ轍を踏まないよう後悔のない狂いをやっていただければ……。
…………まあしかし、だいぶ健常者側に傾いてきたなという実感があります。
以前ならば「怠惰だ」と発狂してしまうような緩やかな毎日が許容できるようになってきました。
駆動するためには欲望が必要で、欲望のためには同じ大きさの絶望が必要ですが、翻って言えば駆動が止まっているということは絶望がないということなのできっと良いことなのでしょうね。
この先は狂気のような一過性の快楽に溺れず、感情を隠さずに下手くそなりにも表現し、緩やかなコミュニティの中でしみじみと幸福を感じながら朽ちていければ良いかと思います。
にゃ。