春は眠りすぎる
近頃の陽気やアレルギー薬の作用もあってか異様に眠ることができ、そして眠る度に同じ夢を見る。
内容の細部は思い出せないが、とにかく少女が出てきて俺はどうしようもなくその子を愛していて、ずっと追いかけ続けているというかなりキモい感じの夢だ。
目が覚めてしまえばその少女の姿も顔も忘れてしまうのだが、ただほんのりと胸に残る「誰かを愛していた」という気持ちが切なく、1時間程度リハビリをしないと出社も出来ないような有様で、然るべき場所に相談すればに普通にキモい罪で逮捕される気がする。
おそらく、ID:INVADED(2020冬アニメ、アマプラで見れるので見ろ)があまりにもよくて流れで舞城作品を読んだのが影響している気がする。
特に、好き好き大好き超愛してる(書名です)は中々のクリーンヒットで、創作パラノイアから抜け出す最後のピースが「愛は祈りだ。僕は祈る。」のワンフレーズだった事に気付かされた。
パラノイアについては散々喋ってきたのでもうくどいかもしれないが、繰り返し主張していたのは以下の3つだ。
・オタクの言う愛はキャラではない第三者に向いており倒錯している(現代のSNSアピール文化への批判)
・愛の発露を成し得る唯一の方法は創作であること
・しかし表現することと愛することは全く別物であるということ
後々これらの論は「やりたい奴がやれるだけなので、やれないなら諦めるしかない」という諦観で破壊され、それでも何者にもなれないことを認めたがらない俺はギャンブル沼へとハマっていくのだが、「祈り」を加えて改めて論じることで希望が見えてきた。
ひとつめについては本当にそうなので否定しない、早くキャラにいくら貢いだかでしか語られない資本主義に毒されまくったキモいインターネットから抜け出したい。
ふたつめは容易に破壊可能だ、俺には祈ることができる。
みっつめ、これも間違っていないが表現を祈りの手段と捉えることで全ては繋がる。
神に祈るときに十字を切ったり手を合わせたり賛美歌を歌うように、オタクはキャラに祈るとき絵を描き音楽を奏で物語を紡ぐのだ。
そして大事なのは創作は手段でしかないこと、つまり創作物自体の巧拙は何ら問題ではないということだ。
こんな単純な事にひとつめの事象が絡んでいたせいで全く気づくことができなかった。創作技術を向上させ人々に知らしめることで本当の愛の証明になると信じ、読みもしない参考書を積み上げ、参加する気もないコミケに申し込んだりしたが、近道のつもりで選んだそれらは「祈り」という本来の目的からすれば恐ろしく遠回りをしていたというわけだ。
祈りが主目的であるのならば、その手段に正解も不正解もなく、また誰かと同じ形にする必要もない。俺はもっとキャラを想い、がむしゃらに下手くそな線を引き祈り続けるべきだったのだ!
と、いうわけでダサくて下手くそな萌え萌えキャラクターの落書きを生成しまくって、あまりの下手さに爆笑したりしながら夢で少女を追いかけてたらツイッターするの忘れてました。明日からまたやります。
以上。